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15.何でも他人のせいか

現代の縮図のように

 もうだいぶ前のことになるが,例の新興宗教の広報部長というのが数ヶ月の間,連日テレビに出てきて,無理な言い訳をする。これがなかなか面白かった。
 彼の言い分はまるで今の世の中の縮図だ。ああした言い訳も,人にいいがかりをつけたり何でも他人のせいにするところまで世間にはしばしばある。しかしあれほど極端にして毎日テレビで見せつけてくれると,反面教師というか,なるほどこれでは変だな,と認識を新たにした人も多いだろう。
 理工学系に進んだ人の多くは,科学というものの純粋さと,真理は決して人を欺かないことに憧れてこの道に入る。それがあんなふうにサギをカラスと言いくるめ,悪いのは何でも他人のせいにしたのでは純粋さが消え,進歩は止まってしまう。
 他人は騙せても自分は欺けないから,あれでは要らぬ精神的負担が増えて良い仕事は残せそうもない。

さて世間では

 あれほどではないにしても,どうも世の中がよいほうに進んではいない,と考える人が多いという。それは政治が悪い,社会が歪んでいる,金が目当ての教育がいけない・・・なるほど,確かに,ごもっとも。
 それなら,こうした現象を食い止めるために,その人は何かやっているか。やはり程度の差こそあれ,「他人のせい」にしているだけではないか。本当に世の中がうまくいかないのは,すべて総理大臣のせい,官僚のせいだけだろうか。
 それに,そうした考え方の根拠はいったいどこからきているだろう。テレビや新聞や週刊誌・・・それを書く人たちの考え方はしっかりしているか?儲かれば,売れれば,聴取率が上がればなんでもやる哲学,いや経済学になってはいないか。
 どうも政治家とジャーナリズムは,自分を棚に上げて他人のせいにする,二大元凶のようにも思える。では何をどこまで信じたらよいか。

それなら何がやれるか

 信念のないのはけしからん,原子力発電反対の座り込みをやれ,空港の土地収容を妨害しろ・・・などというつもりはない。あれほどまでに過激な運動をする人は,社会を改善するつもりで利害を超越しているかもしれないが,なぜそれほど彼等の信念に自信があるのか不思議である。
 原発反対運動の古参の闘士に負けない年月,原子力の研究に従事した筆者から見ると,原子力にもよいところはたくさんあり,危ないから止めろでは片付かない。自分の判断で独善的宗教みたいなものを他人に押しつけ,教唆,妨害までするのは不遜である。

まず身の回りから

 ここで提案したいのは,そんな過激なことの代わりに,まず身の回りを一歩前進させること,それが社会の劣化,崩壊防止につながる。何ができるかは自分で考えるのがよいが,ごく小さな例を挙げよう。

 いま開発中の装置の製品寿命を,従来より半年長くする工夫をする。
②  自分が関与している仕事や製品を,社会から見たらどうなのか考える。
③  日曜日に公園に行き,途中の道と園内の空き缶を回収する・・・通勤の駅でやってもよい。

 電車に腰掛けるとき,二人分の空きなら真ん中でなく片側に詰めて座る。
⑤  次の選挙には,皆ダメだと思っても誰に入れるか真剣に調べ,考えて必ず投票する。

自分で考える習慣

 社会に貢献するにしても,ボランティア活動をやって被災者を救った人たちは立派なものだ。しかし普通には,あまり大きなことを考えると実行しにくい。
 上の五つはごく小さなサンプルにすぎないから,その人なりの考えがあってよい。むしろ何がやれるかを自分で考えること自体が成功の第一歩であり,それができただけで人間として一回り成長するだろう。
 欧米の人達にとってこうした行動は当然で,実に気軽に実行する。日本は完全な後進国で,そういうことをすると変人奇人と見られるから,目立たず簡単な,やりやすいことから手を付けるのがよい。
 第一歩に成功したら次はどうするか。やりたいことは続々と出てくるから,それを子供たちに,社会に根づかせていこう。こうして考え方の根元から育てていくのは,製品や環境や社会を作るのに大いに役立つはずだ。

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(初出:トランジスタ技術,CQ出版社,1997年9月号 第34巻 第396号  連載15:何でも他人のせいか)

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