12.世の中に貢献する一歩
実際に何ができるか
確かに「日本は壊れかけている(連載10)」。しかし我われに何ができるか。言ったり書いたりはまだやさしいが,行いを伴わなくてはどこかの政治家のように役に立たない。だが実際に行うとなると,言えばよいでは済まない問題が起こる。四つの事例をあげよう。
率直な賞賛と発言
筆者の専門の物理や電気などの学会,講演などでの質疑は,日本では極端に少ない。国際会議でも英語圏の発言ばかり活発で,ガイジンに会議を占領されたような風景がしばしば見られる。
日本人に欠点をついた質問をすると,失礼だとか,嫌な奴だと思われるなど,妙な反応が存在する。本当は論文を発表する以上,欠点を指摘されるほどありがたい。しかしそうする人が極端に少ないから,いざ発言となると眦(まなじり)を決して,「そんな現象は起きない」などと反対の極論を述べるはめに陥ってしまう。
相手の発表を全否定してはいけない。一言短く相手の着想あるいは努力を認め,それから自分はこう思うとコメントするとよい。こうして朗らかに活発に発言し,我々の悪しき習性を解消していこう。
ウィットも時には
朝の京浜急行のホームは凄い混雑である。電車が入ってくると降りるのを待ちかねて人々がどっとなだれ込む。私の前にいた背の高い強そうな男が乗り込んだとたん,入り口でぐるりとこちらに向き直って仁王立ちになった。あとから乗ろうとしていた人たちの足が止まる…。
「奥に入れ,ほかの人が乗れないよ」と怒鳴るのが普通だろう。だが,向き合ったタイミングで別の表現がとっさに私の口を突いた。「コンチワ!」男は苦笑して車内に入っていった。
スポーツは何のために
近くの横浜国立大学の跡地に立派な公園ができた。天井の開閉する温水プール,夜間照明つき野球場とテニス・コート,二つの有料駐車場も備えている。
ところが,完成とともに暴走族が集まりはじめ,新しい壁には落書き,周辺の道路には廃車が捨てられ,石段の両側の照明灯は蹴破られた。植え込みには空き缶が投げ込まれ,花壇の草花さえ掘り取られた。
そこで週に一度は空き缶などを拾うことにした。これなら散歩のついでに袋を持って歩くだけで,誰にもできる。
園内のスポーツ施設は健全に利用されているようだ,だが少年野球でもあると,公園に通じる駐車禁止の道路は,橋の上まで親たちの車でいっぱいになる。いったいスポーツは動物的欲求を満たすためにするのか。
私なら子弟にスポーツマンシップと公衆道徳を身につけさせる絶好の機会に,数百円の駐車料金を惜しんでその反対のことを教えたりはしない。それは若者の将来を住み難くするだけだ。
テニス・クラブの良心
ある日曜日に同じ公園を散歩すると,駐車場前の道に30台ほどの車が駐車していた。テニス・コートの近くには人品卑しからぬ紳士が賞品の山を前にして座り,「南区…」と書いた旗が飾ってある。この人たちなら言えばわかるだろうと世辞も頓知もぬきで,スポーツをやるなら駐車違反をやめるよう,参加者に言ってはどうかとストレートに申し入れた。
すると,おまえの名前は住所は職業はと聞かれ,自宅がこの道のどのあたりかを書くように言われた。それなら小生もこの団体が何だか知りたいと言うと,ヤクザに言いがかりをつけられたような反応ながら,この会の会長さんの名前を書いて渡してくれた。
車を駐車場に入れるようにとアナウンスは誠実に実行され,帰りに見ると車の列には4台しか残っていなかった。
当たらず触らずでは
「岡村さん大変だねぇ」とテニス・クラブの会長さんが別れ際に揶揄していた。我が国では進歩的な類である横浜市の,ボランティアでこういう行事をするほどの人たちにとってさえ,彼らの常識では公園の属する町内会(?)の会長でもない小生が,区の協賛団体が主催する行事の駐車に文句をつけるなど,あきれたお節介と思えたのであろう。
だがこうした未開のムラ意識や公共ということの認識が,民主主義を形ばかりの抜け殻にし,腐敗した官僚,頼りない政治家を生んだ温床であるに違いない。
大変なのは岡村さんだけではない。自分ができることを一つずつやらずに,「壊れかけている日本」をどうやって立て直すのか。
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(初出:トランジスタ技術,CQ出版社,CQ出版社,1997年5月号 第34巻 第392号 連載12:世の中に貢献する一歩)