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1.哲学のある人と作品

新興宗教と技術雑誌

 テレビをつけると,ひところはどの局も例の新興宗教に関連した番組ばかりだった。だがこれが通常の番組よりよほどまじめで,はるかに関心を引く。おもしろいなどといっては亡くなられた方,怪我をされた方,必死に捜索をしている方や闘っている方には申しわけないが,いろいろな点で考えさせられた。
 教団施設の部屋の中がすうっと写っていくと,『トランジスタ技術』の赤い背表紙がギッシリと並んだ場面に何度か出合い,ガクゼンとした。どうもこれは別世界の現象でも,他人ごとでもない。本誌の読者や理工系大学院の卒業生があのような考えに至る責任の一部は,原稿を書き教壇に立った筆者にあるかもしれない。
 そう思って自分を振り返ると,『トランジスタ技術』や『インターフェース』,あるいは単行本やソフトウエアを通して多くの読者に関係がある。拙著『OPアンプ回路の設計』だけでも30万人を超える読者だから,某教祖ほどではないにしても,百万人の読者を誤った方向に導いていたらその影響も無視できないはずだ。
 何が気になるかといえば,技術文献などの背後に存在する「思想の部分の欠落」である。どうも技術の原稿には思想のようなものは書きにくい。本誌では物ができればよいので,そのための説明には思想や信念は要りそうもない。

信念を説くべきか

 だいいち筆者は哲学者ではないから,技術ならともかく信念のほうは,他人に読んでもらうほどの価値があるか疑わしい。そんなことにページを割いていると,技術系にはそういうことが苦手な人が多いから,読者に嫌われるという危惧の念もあった。
 しかしその結果,技術だけを学んで信念や思想,哲学を学ばない百万の読者を育てたことにならないか。もちろん哲学は別のところで学べばよい。しかしガリレオやダビンチとは違って,現代の哲学者は必ずしも電子技術とのインターフェースを理解しないだろう。200ぺージの本ならせめて数ページでも,及ばずながらこんな考えで物を研究している,作っているということを書くべきではなかったかという反省がある。
 電子回路を研究したり設計したりするにしても,チョコッと人真似で物を作らずに,オリジナリティを尊重する。長く使える技術を蓄積し,繰り返し使って磨いていく。こうした要点をもっと表現するべきではなかったか。

なぜ日本人は尊敬されないか

 昔は学問をするといえば,人間を作ることだと考えられていた。孔孟の教えを引くまでもなく,我が日本でも例えば岡山藩の閑谷(ししたに)学校も長岡藩の国漢学校も,乏しい財政の中で食料を節約してまで次の世代をになう人物を育てようとした。
 それにひきかえ,現在の教育は間違っていないか。今の教育は国民の血税を使って,他人のためにも社会のためにもならない,小賢しい金もうけや保身術を教えているようだ。これで本当に次の世代をになう人物が育つだろうか。
 次の世代といわなくとも,もう既に現象がそちこちに現れている。国民が勤勉で,製品が素晴らしい……といった好評の影に,どうも日本人は尊敬されない。あいつらのやることは金,金,金だ,などの反響も聞こえる。
 それはやっかみ半分だ,島国だから,英語が下手なので……など言い訳はあるだろう。だが同じ金を出すにしても,他人の顔色をうかがってから出したのでは評価されない。本国の訓令に背き,自らの判断で難民を出国させ多くの命を救った外交官,杉原千畝がなぜ世界に評価されたかを考えると,相手を納得させる哲学のある人,組織,社会が充分できていないのが,日本人が評価されない根本原因ではあるまいか。

哲学のある製品

 ドアの補強,エアバッグ,衝突の実験,ドイツ車よりだいぶ遅れたがそれでも結構。だが宣伝のために,格好だけやったのでは困る。セールスポイントにならなくても,見えないところを哲学をもってがっちりとやり,どうせ格好ばかりだろうという疑いを晴らさなくてはならない。それができないなら作らない,売らない。それが信用への道である。
 この考え方は別に自動車に限らない。政治家や薬品会社や銀行マンの専業というわけでもない。世界の安ピカものから品質の日本といわれるまで向上した今日,もうひとふんばりして,信念のある研究に励み,哲学のある製品を作りたいものだ。

(初出:トランジスタ技術,CQ出版社,1996年 6月号 第33巻 第381号 連載1:哲学のある人と作品)

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