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4.文章を読み書きする力

子供のころの筆者と父親の会話

 子「いくら直してもスイコウ不足だと言うのではきりがないよ。」
 父「文章の表面を直すのではいかん。僧は推す月下の門,僧は敲す月下の門,後者は音があり前者にはない。どちらにするかを一晩中考えた,これが推敲だ。」
 子「そうなるともう病気だ,病コウモウに入ってる。」
 父「その病膏肓も違っている。病コウコウが正しい。」
 子「これじゃあ神経がショウモウしちゃうよ。」
 父「それをいうならショウコウ(消耗)だ。」
 本を読むのは漫画やテレビを見るより面倒だ。その本が良い本であればあるほど,読者に考えることを求めてくる。そこが本というものの価値ではないか。

難しい文章と不出来な文章

 難しい文章と不出来な文章とはしばしば混同される。内容が高度なのか,表現が不備あるいは拙劣なため理解が困難なのかは,厳しく区別する必要がある。
 「人は考える葦である」という文では言葉は明快だが,思想が高度で深く考えざるをえない。これに対して,筆者の手元にある1983年のMS-DOSの説明書は,今読んでも非常にわかりにくい。原因は,内容は難しくないのに,定義されていない用語が順不同に出てきたり,同じ原語に複数の訳語が当てられたりして,翻訳が拙劣だからである。
 コンピュータ関係の取扱説明書に見られるように,理科系の人の文書には,はじめから日本語なのにこういうのがある。義務教育の国語をサボったか,読む人の立場になれないかが原因であることが多い。

なぜむずかしい言葉を使うか

 哲学か科学かを問わず,専門的な分野の著作や論文などでなぜ難しい言葉を使うか。その理由は複雑な意味を短く,しかも正確に表現したいからである。「三角形の内角の和は180度」という表現は,三角形,内角,和,度という用語を正確に知っている読者にとっては,その目的を簡潔に達している。
 しかし,そのうちの一つでも知らない用語があり,たとえば内角とは何かがわからないと,この文章は意味をなさない。それらがわかっている人にとっては,より高度な思想や論理を簡明にまとめ,その先を考えることができる。もしも三角形,内角,和,度のそれぞれについてやさしい言葉で,あるいはマンガに描いて説明すれば,用語を知らなくてもわかるから,やさしくわかりやすい親切な本ということになるかもしれない。だが,それではその先に行くのにくたびれてしまう。
 高いレベルに達するには,それ以前のレベルの事柄をコンパクトに整理しておかないと,その先の考えを組み立てる場所がない。そのために専門用語があり,定義が必要になるのである。

誤って使うと

 ほかのことでもそうだが,現実の世界ではこれが見せかけに堕しやすい。つまり,内容がないのに立派そうにみせようと難しい言葉を使ったり,書いた人を偉くみせるための難解な文章をつくる。見かけだけ立派にして騙してやろうと意識しなくても,学会論文なみの用語を使って水準の低い内容を書けば,自然にそうしていることになる。
 したがって,これからいくつかの結論が導ける。一つは読者の側で,難しい論理や表現を的確に理解する読解力が必要である。二つは筆者の側で,冗長にならないよう注意して,できるだけ広範囲の読者にわかりやすく書くことである。
 マンガばかり読む大学生が問題なのは読解力がつかないからである。マンガでは思想の伝達がどうしても印象的,表面的なレベルにとどまる。マンガが読みやすいということは,熾烈な大脳の活動を引き起こしていないからで,思考の昇華が起こりにくい。

である調ですます調

 これは形式的なことだが,近ごろ学会誌や大新聞にまで,「である」調の文章の中に「ですます」調を混用するのが目につく。それによって新しい文学の潮流を作ろうなどという立派なものではなくて,どうも謝辞などのところを「である」調で書いては失礼だと思う人がいるらしい。「……は不可解である。ご忠告にはお礼を申し上げます。」といった文章は,成人がまじめに書いたにしては変だ。
 実例をかねて,筆者もこの難解な拙文を熟読して戴いた読者に,改めて謝意を表したい。

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(初出:トランジスタ技術,CQ出版社,1996年 9月号 第33巻 第384号 連載4:文章を読み書きする力)

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