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成功しなかった石炭液化/千葉 廉

 昭和16年7月、日本はドイツに敗れて弱体化したフランス政府と交渉し、当時フランス領だったベトナム、カンボジアの南部に陸軍を進駐させた。いわゆる平和的進駐である。
 これに対しアメリカは日本に対して石油の禁輸を行った。当時も今も日本には国産の石油はほとんどない。石油が輸入できなければ飛行機も軍艦も動かせなくなる。備蓄があるうちに石油資源を入手しなければ戦わずして敗れる。日米の外交交渉で石油禁輸を解除するか、これが不調に終われば当時オランダ領だったインドネシアの油田を占領する以外の選択肢はない状態に追い込まれた。
 日本に石油入手の手段がなければアメリカの要求はますますエスカレートする。11月下旬、ハル国務長官は「ハルノート」として知られている日本がとても呑めそうにない要求を出してきた。日本側はこれを最終通告と受け取った。
 こうして外交交渉は不調に終わり、12月8日の真珠湾攻撃となり戦争に突入した。
 第二次大戦を戦ったドイツにも石油資源はない。1913年に石炭から液体燃料を製造可能なことが分かったが、1914年から始まった戦争には間に合わず、ドイツは石油不足に苦しんだ。戦後、良い触媒が見つかり、1926年には商業生産を始めた。その後設備を増やし、第2次大戦が始まる頃には年産450万トンの生産能力があったといわれている。その後750万トンまで設備を増やした。
 第二次大戦に於けるナチスドイツの積極的な政策には燃料自給の裏づけがあった。
43年、連合国側はアメリカの長距離爆撃機の数が揃うと、ドイツの支配下にあったルーマニアの油田を爆撃し、44年になると人造石油工場を爆撃し、徹底的に破壊したので、燃料が不足し、44年の末には戦車は片道燃料で出撃したこともあったといわれる。
日本は昭和12年(1937)、当時の石油輸入量400万klの半分を石炭液化で供給する5ヵ年計画を立て、ついで7ヵ年計画、400万klに引き上げた。当時の国家予算の
1/4にもなる野心的計画であった。
 ドイツから技術を導入しようとしたら、海軍の徳山燃料廠で実験をしたらできた。そこでこれでやれということになり、工場を作ったが全くうまく行かない。最終的に70万klを作ったが、そのうち石炭液化は11万klだったという。膨大な予算をかけて建設した工場は無駄となった。
最初の予定ならば昭和16年には石炭液化のめどが立っているはずであり、そうすれば開戦は必要なかっただろう。日本は石油資源がなかったというよりも技術がないため戦争を始め、その結果、悲惨な敗戦となったといえよう。
今後は炭酸ガス削減のため化石燃料の制限が厳しくなる。安部首相は2050年に炭酸ガス排出を半分にするといっているが、差し迫った京都議定書の目標(08~12年に90年より6%、その後の増加分8%、計14%減)達成のめども立っていない。キャパシタが十分安くなり、広く使われるようになれば大きい削減効果が見込まれるが間に合わない。
 これまでの50年間、豊富に使えて20世紀の文明を支えてきた石油の供給が怪しくなってきた。昔は石炭液化が国家の興亡にかかわる重要なエネルギー技術であった。これからも重要なエネルギー技術はおろそかにできない。

執筆者:千葉 廉
chiba
略歴
1927年(昭和2年)生まれ、東北大学理学部を物理専攻で卒業し、1954~57年まで米ウィスコンシン大学に留学。その後東北大学の助手を経て、日本原子力事業株式会社((株)東芝に合併)に勤務。1960年代より東京工業大学理学部物理学科 助教授・その後教授となり、定年後名誉教授となる。趣味は少林寺、水泳など

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