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7.世の中の恩恵

一流大学に入ったら

 名古屋大学大学院の原子核工学教室で,筆者は長いあいだ非常勤講師を勤めた。講義のなかで必ず一度は話すことにしていた一節がある。
 「諸君は著名な大学の入学試験に合格し,さらに大学院まで進んで勉強する機会を得ている。これを儲かった,得をしたと考える者がいるなら,それは心得ちがいである。」・・・こう言われると,多くの学生はとまどった顔をする。
 社会で働いている同年配の人は税金を納めている。なぜ君たちは贅沢をして税金も払わず,ほとんど社会に貢献しないですんでいるのかと聞くと,それは収入がないからだと言う。収入があれば学生でも税金を払うが,俺は収入がないから払わないのはあたりまえだという。……そうかなあとクラス中で議論になった。

学割はなぜあるか

 別の場面で,なぜ学生は定期券から入場券の類まで割引があるのかと聞くと,それは大人と子供の間だから,その中間の料金にしているのだろうという。それなら中学卒で就職した人は割り引かず,ずっと年の大きな大学院生を安くするのはどうしてか。それは学生は収入がないからだという。
 それなら失業して収入のない大人からは普通に取って,アルバイトで収入のある学生はなぜ安いか。こんどは答えが簡単には出ない。大人の年齢を区別するのは難しい,収入証明を持って歩くのでは不便だ,等々甲論乙駁のあげく面倒になって,こういう風に議論のしつこいのは嫌いだ……などと落ち着く。
 国立大学に入学してから大学院修士で卒業するまで,国は学生一人当り巨額の資金を大学に支払う。その金は同年配で働いている人の税金からも賄われる。つまりこれはその学生にとって世間が肩代りしてくれた借金である。私立大学も金額に差こそあれ私学助成や学校法人としての便益が供与されている。いったいこれらの現象は,一種の社会的不公正なのだろうか,それとも学生が儲かるように自然にできているのか。
 これは一種の奨学金だと考えるとわかりやすい。奨学金は修学中に資金を借り,働くようになってから返却する。なぜそんなことをするか,それは勉強の成果が社会に還元されると考えたからではあるまいか。

もう乗れないバス

 新宿の伊勢丹というデパートの裏手で,筆者は大学一年の4月から卒業するまで四角い制帽と制服で週日の毎朝,乗り継ぎのバスを待っていた。角を曲がってくる7時50分のバスのドアはたいてい閉まってはいなかった。満員の乗客はステップにまで乗っており,早朝の伊勢丹前では誰も降りない。それでもバスは筆者一人を乗せるために4年間いつも止まってくれたらしく,通過された記憶は一度もない。
 ドアの閉まらないところに私が乗りこむのだから,その後はもう誰も乗れない。通過していく停留所で待っている人に頭を下げながら,大学もこうなんだ,私が入らなければ誰か他の人が入れたはずなんだと揺れるバスにしがみつきながら考えた。おかしなことにその考えとともに,ステップの右側に立っていたT型の支柱とドアに付いていた斜めの棒とを,約40年たった今も鮮明に覚えている。

ご近所の待遇

 田舎から出て浪人したあげく,第2志望だった大学に入ったためか妙に覚めて,少しひねくれていた。入学試験に受かったといってどこが偉いんだろう。要領良く受験技術を磨いて,人の前に滑りこんだだけではないか。それなのに下宿と大学の周辺の人達が大事にしてくれることといったら,浪人時代と違って何様みたい。これはいったいなぜだろうと考えさせられた。
 学生相手の店なら,お客さんが大切だということもあろう。しかし筆者が下宿させてもらった山田夫妻をはじめ,その向う三軒両隣は学生が一人いることでまったく何の利益もない。のちに嫁まで見つけてもらうとは知る由もなく,ただでお世話になりとおした。

これに報いなくては

 親にも,社会にも報いなくては……というと,それは儒教の教えである忠孝の精神につながる,などという人がいる。
 そんな形式的なことはどうでもよい。どこにつながってもかまわないから,与えられた恩恵がありがたかったのなら,それを次の世代に贈り継ぐべきではあるまいか。そうでなくては,このまま利己主義ばかりがはびこると,世間はどんどん住みにくくなってしまう。
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(初出:トランジスタ技術,CQ出版社,1996年12月号 第33巻 第387号 連載7:世の中の恩恵)

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